読書録#13 R.Chambers “Revolutions in Development Inquiry”

ひどい事件が起きてニュース聞をきたくない。でも現実だ。
まだ真相が良くわからないし、これから色々な報道がされるだろう。「痛ましい」というのを通り越している。何より恐ろしいのは、誰の心にも生まれうる、または現にある、人間性に悖る差別が、暴力的な形で顕在化しているように見えることだ。

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これまでの情報で推察するに、社会的な弱者が絶対的な弱者の排斥に走った事件、といえるようだ。

社会のある側面では、多様性が受容されることが一種のステータス化している。例えばLGBTを擁護、または政令で守るような自治体が、先進的と見られているようなことである。しかし、一方で弱いもの、多様なもの、風変わりなものに対する寛容さを持った世界が、終焉に向かっている動きもあるように思われる。これは、分かり易くて突飛な保守政治家が台頭していることなどである。

日本は何故宗教戦争が起こらなかったか、ということについて、日本の気候風土に育まれた「他者の尊重」という文化を基にしている、というような説明を聞いた。日本人は集団の和を尊ぶという。これには異論はないが、その裏面として、実際は非常に個人主義な人たちだと思っている。

ただし、それは偏狭な個人主義ではなく、寛容さを旨として他者を尊重する懐の広さを提供しているとも説明できる。そのような態度を日本は忘れてしまっただろうか?それとも、特定の人たちに対しては恐ろしく冷酷になるんだろうか。

ところで、IDS宿題シリーズの2冊目。
R.Chambers(2008)“Revolutions in Development Inquiry

筆者はSussex大学の先生であり、生物学者の博士号を取得後、さまざまなフィールドリサーチを重ね、従来のトップダウンで時間・コストがかかり、受益者のためにならないの開発の反省から、コミュニティの住民と非常に近いトコロで調査を行う手法を開発した。その道の人たちにとっては、チェンバースの参加型開発手法は、それこそ超スタンダードな議論のようだ…なお、筆者が編著者の一人である本は以前も記録をつけた

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この本、全面に渡って開発学研究者がいかにバイアスを持っていて、それを現場に持ち込み、コスト効率が低く、しばしば膨大なデータがそのまま使われないような、困った調査を繰り返すかについて指摘がされている。

たとえば、農業と経済の分野では、家の周りの家庭菜園や地域内の空隙での耕作が、実は家族の食を支えたり、イノベーティブな取り組みの実験場所になったりするという。しかし、研究者たちは比較的お金になる作物や大きな圃場に注目し、多くの場合見過ごしてしまうし、定量的に価値を図ることが難しいそうだ。その他にも数え切れないほどの例が示されている。

さらに、このような失敗を重ね、PRA(Participatory Rural Appraisal)の原則に従っていないプロジェクトが多くある、という点を指摘している。

現在、この手法は批判も多くなされており、その主要な指摘は「専制(tyranny)」に対する危惧である。PRAは研究者・ファシリテーターがプロジェクトの中に入り込み、住民とコミュニケーションをしながら、歩を進めていくスタイルになる。そのため、研究者らが考えること(しばしばドナーの要請)が、住民の決定や意見に色濃く反映されてしまう、というような話である。これを避ける決定的方法は無さそうであり(複眼的視点で気をつけるしかない?)、わたしの勉強不足もあろうが、上記の筆者の指摘は少しフェアでないように感じた。

さて、宿題図書1冊目でも大きく取り上げられていたのは、質的研究と量的研究のバランスである(ちなみにチェンバースはこの本の1章で、大規模すぎる調査を戒める内容を記している)。ここでは、統計も質的研究が可能と言うことで、参加型統計手法を紹介しており、そこで出てくるMalawiの例がおもしろい。

1998年の国勢調査では、農村部の世帯数は195万世帯であったが、これは農業スターターパックを配布するプログラムの対象数(289万世帯)から大きく乖離していた。調査方法を改めることで、よりよい数字が推定できるようになっただけでなく、既存統計よりもおよそ35%も人口が多いことが判明したという。国家が土地・人民・統治機構から成ることを考えれば、国としてどんなにフラフラか、自国民に権力のリーチが届いていないかが推察できるだろう。

ただし、このような手法についても、「誰のため」に「誰が」数字を作るのかという基本的な問いにプラスして、「政治家が本気で新しい手法による統計を採用する気が無いなら、やめておけ」といった、現実的で経験に裏打ちされた指摘がなされている。

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これと同じようなことが言えるものの一つに、非常に広範かつ頻繁に使われる手法として紹介されている、参加型マッピング?がある。これはコミュニティやその周辺の地図を作るというものであり、作成する目的や手段はさまざまだ。よくあるのは自然資源の利用に関するマップ、人々の健康状態に関するマップ、自然保護のためのマップ、などであり、土の上に書く、紙に書く、GIS等に入力する、といった手法が選択できる。

この見える化を経験すると、「土地」の観念が変わるだけでなく、自分たちの権利を守ることにつながるそうだ。ただし、この手法は地図と言う明示的な形で残るので、いっそう倫理への配慮が必要だ。統計の数字づくり(Who counts?)と同じく、Who and Whose?は常に問わなければならないのである。

読中から、チェンバースがこの分野の泰斗であるとともに、彼が活躍した時代は過ぎ去ったのかな、と感じた。というのも、専制論とその批判的再考を含む最近の学説の代表的論者に、Sussexの学者はあまり見当たらないような気もする。

それにしても、はやく今の潮流をざっくり捉えられるようになりたくて、『開発社会学を学ぶための60冊』(2015)という本を読み始めている。この本、日本の開発社会学の代表論者数人が、お勧めの本を分野ごとにチョイス、その内容を要約されている本で、とても役に立ちそうだ。すべての分野でこういう親切な本があればよいと思う。

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最初に戻るが、社会科学は、恐ろしくひどい出来事や人間のピンチを、ジャンルに拘わらず、自らの理論に立脚した場所から、ちゃんと解釈して説明しなければならないし、それが出来なきゃ存在理由が無くなってしまうと思う。

そうならぬよう、何がダメか、何をすべきか、これらを検討するために、「理論」を勉強して使いこなすことと同時に、感性やカンを磨く必要があるのではないか。

私たちは「社会についての知識+自分の感性・カン」物事を判じていて、得た知識を理論的なフレームワークを用いてどう解釈するかも、感性・カンに依存するところがあるように思われる。ということは、結局、感性やカンで判断するということだ。あるいはこの感性こそが知性と呼べるのだろうか…

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