ケツァルの国グアテマラ:感想編

グアテマラに行ってみて、まだまだうわべだけとはいえ、ラテンアメリカに触れる機会となり大変ありがたかった。3つだけ感想をあげるとすれば、
①国土や街がゴミだらけ
②私は我慢する力が足りない(日本快適すぎる)
③お腹は壊したくない(健康は大事)
以上。

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ネガティブばっかりだが、楽しげなことは前の文章で書いたので、ここは現実的にいきたい。ただし、まだまだ表面に触れただけなので、ほんとうの感想が出てくるのは、もう少し後になってからだと思う。ではグアテ滞在中に読んだ本のことなど。


須賀敦子「霧の向こうに住みたい」「塩1トンの読書」など

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須賀敦子が好きだ。本を読むたびに、大学の彼女の研究室を訪ねて、わくわくしながら、でも少しかしこまって話を聞いているような気分になる。だから、ただ作家として好きというより、まさに大学生が素敵な先生を敬愛するような、そんな感じだ。

作品を読み尽くした、というほどでは全然ないけれど、何冊か持っていた文庫本は、周りの人に薦めて貸したりあげたりするあまり、手元から1冊もなくなってしまった。仕方ないので今は電子書籍で読むことにしている。

須賀敦子がきらい、という人とは仲良くできないと思う。(文章がなんだか取り澄ましていて、好きになれない、という人はいるかもしれない。それは仕方ない。)

「塩1トンの読書」という本の冒頭に、タイトルにまつわるエピソードが書かれている。それによると、須賀が新婚当時、イタリア人の姑に「すくなくとも、塩1トンを一緒になめるくらいでないと、ひとりの人を心底に理解することはできない」、という喩え話を聞いたことに由来するそうだ。そして、これは本、とくに古典にも通ずるのではないか、と続ける。

ただ辛苦を共にするというだけではなくて、塩1トンを舐めるほどの長い時間をかけることで、人も本も、新しい面が現れる(見えてくる)。そして自分とその人、その本だけの関係が作られていく。それが醍醐味なのだという。

ミラノやその他の街での思い出を綴ったエッセイも、きっと同じように書かれたのかな、と思う。

須賀作品を読むと、彼女の数奇な人生と相まって、まわり道や寄り道をしないと、見えてこないものや辿りつけない場所があって、そのためには限りある時間を相当に投入することが必要で、しかもそれはちっとも勿体ない事では無いと、そういうメッセージをいつも感じる。すくなくとも私はそんなふうに解釈している。

そこで1つ思い返した言葉があった。それは、ゴリラの研究者である山極京大総長の話。いわく、

「時間を節約してなるべく自由な時間をふやそうとするのは、ある意味では正しいかもしれないが、社会的な関係をつくる上では、むしろマイナスだった。
相手に対する優しさというのは、時間をかけなければ生まれてこない。それが結局は、自分の資本となる」

とのこと。

ここでは、ゴリラの社会集団に対比した時、人間社会が何を忘れてきてしまったか、というこなので「人」に対して触れられているが、時間をかけて寄り道(もはや本筋とも言える)して、なにかを理解するというのは、他のものごとにも通じるのではないかなぁと、思った。

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